知らない顔ばかりする君は。




「兄貴が、サッカーやめるらしいっす」
 あ、やめたっていったほうが正しいのかもしんないけど。

 藤代はそう呟きながら、勉強机と対峙している渋沢と、極力目を合わさないように心がけた。目を見てしまえば、何も言えなくなりそうだ。今の自分はひどく不安定になっている。不安定になっていることに、そのときようやっと気が付いた。

「……そうか」
「別に、わかってたことなんすけど」

 自分とは違い、頭のいい兄。医者になりたいという希望は前々から聞かされていたし、自分も兄にピッタリの職業だと思っていた。でも――まさか、こんなに早くサッカーをやめるとは思わなかったから。何かモヤモヤしているものが渦巻いて仕方なかった。ぐらぐら揺れていると思った。揺れている。それが一番適切な表現だな、と藤代は思った。
 渋沢は何も言わない。突然こんなことを打ち明けられたのだ。驚くなというほうが無理な話だった。それでも、藤代は渋沢の言葉を欲していた。なんでもいいから、呟いて欲しかった。―― 自分はなにを期待していたんだろうか。どこか絶望的な気分になってくる。


「最後にね、サッカーしたんです」
 兄貴が、やろうっていうから。兄貴からやろうなんて言うの結構久しぶりで、――いつも俺からだったんすよ。やりたいっていいだすの。だから俺、結構嬉しくて。そんで一緒に土手でサッカーしたんです。

 自分の言葉だけがその場に響く。古いフィルムを上映してるように、頭の中で流れるように映像が流れていた。夢中になってボールを追いかける。お互いの癖をよく知っているからこその取り合い。ゴールした瞬間の快感。たかだか三日程度前のことなのに、何もかもが懐かしく思える。楽しかった。楽しかったよ。 そう呟いて、自分と良く似た顔立ちをした男は笑った。お互い土手に倒れ込みながら、楽しい、と。笑ってた。

「家に帰って、飯食って――、明日寮に帰るんだろ、て、寝る前に兄貴が部屋に入ってきて」
 そしたら、俺、サッカー止めるからって。

 何言ってんだ、って感じっすよ。だってそうじゃん。そりゃ兄貴は俺より確かに頭良いし、医者になりたいっていうのも、俺知ってたけど。……知ってたけどさ。

 それ以上何もいえなくなった。渋沢は静かに立ち上がって、藤代の隣へと座る。ベッドがその重みで微かに軋んだ。


「藤代」
「はい」
「つらいのか?」
「………」


 つらいのか。渋沢の言葉が重くずっしりと耳に響く。その目は優しい色をしていて、藤代はゆっくりと首を振る。違う。自分はこの人に同情して欲しいわけじゃない。じゃあどうして相談してるんだろう。でも。違う。でも。矛盾した感情を抱えながら、半ば睨むように首をふる。違う。やっぱり俺は、あんたにそんな言葉をかけて欲しいわけじゃない。

「別に」
 止めていくやつなんて、しょっちゅう見てきたし。
「じゃあ、どうしたいんだ?」
「……別に、どうも」
「それじゃ 俺に話した意味がないだろう?」

 渋沢は静かに苦笑いを漏らして、そしてゆっくりと藤代の頭をひきよせた。渋沢のどこか角張ったその手の感触に藤代は一瞬身体を震わせ、それでもされるがままにされた。お互いの額がふれる。声がより近くに聞こえる。温度があがる。触れ合ったところが熱い。はきだす息が溶け合う。藤代は目をつむった。その手の暖かさに身体が震える。とけあう息に身体が強張る。触れ合った温度に、心が落ち着ていく。

「…お前に勝てない」
「ん?」
「お前には追いつけない、て」
 兄貴が。

 声が、かすかに震えた。あの時の感情が蘇ってくる。追いつけない。自嘲気味に、寂しそうに悲しそうにあの男はそう呟いた。そう呟いたのが自分と血が繋がっている人間だとは思いたくなかった。自分にサッカーを教えた人間だと思いたくなかった。まるで突き放されたような感覚を覚えた。追いつけない?ふざけんな。藤代は吐き捨てる。

「あいつ、俺を理由にして、結局逃げただけだった」
「…藤代」
「追いつけないなんて、そんなくだらないこと言ってほしくなかった」

 夢があるから。理由はそれだけで十分じゃないのか。そうすれば自分は納得できたのだ。自分とは違って頭のいい兄。けれど、自分と同じように夢を追いかけている兄。自慢の兄だった。どうして最後までその仮面を被ってくれなかったのか。反吐が出そうだ、と、藤代は思った。この三日、ずっとそのときの夢を見続けた。部活でも身体がうまく動かなかった。それでも「休みボケ」と笑って誤魔化していたのに。できるだけ何も考えないようにしていたのに。渋沢の前だとなぜだか自分は感情を抑えることができない。すべてが溶けていくような錯覚を覚える。吐露させられるような感覚。自分の全てが暴かれていくような、そんな感覚。

「俺にサッカー教えたの、兄貴だったんすよ」
「そうだったのか」
「……俺、兄貴がいたからサッカー好きになったのに」

 渋沢は、かすかに頷いて掠れるくらい小さな声で「わかる気がするよ」と呟いた。お前は相手が上手ければ上手いほど、夢中になるからな。その言葉はひどく優しい響きだと思った。同情もなにもかも入っていなかった。いや、最初から渋沢は同情なんてものを自分に投げかけていなかった。わかっていたのに、わからないふりをした。同情なのだと決め付けていた。わかろうとしていなかった。藤代は、何かが喉からじりじりと這い上がってくるのを自覚する。渋沢の言葉に、何かが湧き上がってくる。その感情は渋沢にしか引き出せないものだと思った。
 会話は、続く。

「俺、ずっと気付けなくて」
 兄貴が、そんなこと思ってたなんて しんなくて。

 武蔵森に受かったときも、レギュラーになったときも、選抜に選ばれたときも、自分は笑顔でそれを報告し、兄はそれを笑顔で祝ってくれていた。いつからだろう、と、藤代は渋沢の温度を感じながらそう思った。いつから。いつから自分はあの人を傷つけていた?武蔵森に受かったとき?レギュラーになったとき?選抜に選ばれたとき?……それとも、サッカーを始めたとき?わからなかった。自分の中で、兄の笑顔はいつでも同じだった。わからなかった。

 藤代、と、渋沢の声が響く。藤代。落ち着かせるように、言い聞かせるように、自分の思いをそのまま口にするように渋沢は呟いた。目の前の男がこんなにも無防備に自分の意識を解放するなんてめったにないことで、どこか嬉しく思っている自分を渋沢は感じていた。―― 不謹慎だな、と、自分に苦笑する。


「…お前のせいじゃないよ」
「……」


 お前のせいじゃないよ。


 藤代は渋沢の目を試すように睨むように数秒見つめ、はい。と、少し力をこめて頷いた。はい。そう呟きながら、藤代はじりじりと湧き上がってきた感情を今度こそおさえきれずに、嗚咽を漏らした。渋沢は何も言わない。ただ微かに触れ合っていた手に力がこめられた。それだけなのに、その温もりに藤代は安堵し、もう一度嗚咽を漏らした。
 それは他人からすればありきたりの慰めなのかもしれないし、この人以外が呟いたならば、こんなにも自分を揺さぶらなかっただろう、と、藤代は思う。この人だからこそ、自分はこんなにも揺れているのだ。この人だからこそ、自分はひどく安心できるのだ。藤代はそう思ってもう一度目を瞑った。渋沢の匂いがした。―― 安心した。






「先輩」
「ん」
「……キャプテン」
「なんだ?」

 藤代がいたずらっこのように、「なんだと思います?」と、くつくつと楽しそうに笑った。ようやく落ち着いたのか、その目は赤かったが、笑顔はいつもの藤代のものだった。渋沢はそんな藤代を見つめながら、静かに笑う。どうしてこんなにも真っ直ぐなのかと、呆れてしまう。めちゃくちゃなのかと思えば真っ直ぐで、―― 目を離せない。目を離したくない、と、思った。

「さあ……、わからないな」

 目を伏せながら、そう問い返してくる渋沢の温度と、髪に絡まっているその手の温度に、藤代はどこか嬉しさを感じて渋沢の空いているほうの手を掴みながら、呟く。俺。俺ねえ。

「俺、先輩に聞いて欲しかったんですよ」

 ゆっくりと噛み砕くように呟く。
 聞いて欲しかったんです。

「聞いてもらえたのがキャプテンで、嬉しかったっす」
「そうか」

 渋沢の言葉に藤代は二っと笑って、その手を解いた。ありがとうございました。その言葉に、渋沢が黙る。その沈黙が不思議で、藤代は首をかしげた。渋沢さん?その言葉に、渋沢がようやっと顔をあげる。

「藤代」
「はい」
「……もし俺が」
「キャプテンが」

 サッカーをやめると言い出したら、お前はどうする?

 予想外の渋沢の言葉に、藤代は目を見開いた。
 え、なんで。なんでそんなこと聞くんですか?
 遠慮のない藤代の言葉に渋沢はかすかに苦笑いを漏らして、まったくだな、変なことを呟いたよ。と、我に返ったようにそう繰り返す。そんな渋沢を見ながら、藤代は小さく笑った。そうっすね……、どうするかな。そう呟きながら、ベッドに座っている渋沢を見下ろしながら続ける。


「たぶん、まず最初に嫌だっていいながらわめきます」
「……藤代?」
「わめいて、キャプテンのこと殴って、―― 俺もやめちゃうかな」
「お前がサッカーをやめるなんて、無理な話だろう」
「それはキャプテンもじゃないっすか」
「………」

 これはもし、の、話でしょう。
 藤代の楽しそうな声が響く。それでもどこか真剣な口調で、真面目な顔で「俺もやめます」と、もう一度呟いた。その響きに渋沢は声を失う。やめます。あなたがやめるなら。やめます。
 身体が震えた。それが歓喜からくるものからなのか、藤代の純粋さへの恐れからくるものなのか―― 渋沢にはわからなかった。自分は少なからず嫉妬していたのだ。藤代にこれほどまでにダメージを与えられる藤代の兄という存在に。嫉妬していた。藤代の話を聞いている最中、それを顔に出ないように気をつけるのに苦労したほどだ。それでも藤代は簡単にそんな渋沢を掻き乱し、―― 本能だけで自分を引き寄せる。
 恐ろしかった。歓喜した―― 愛しいと 思った。


「………」


 渋沢は何も言えなくなり、そして藤代とほぼ同じタイミングで笑った。ありがとう。そう渋沢が呟くと藤代は幸せそうに笑った。その顔が今までの言葉は真実なのだと信じさせてくれる。三上先輩、呼んできますね。そう呟く藤代に頷いて、藤代が出て行くまでその姿をその目で追った。
 パタン、と、扉が閉まる音がして、渋沢はそれと同時に長い長い溜め息をつく。


「……」


「……やられたな」

 正直な気持ちだった。
 まさかああいう反応が返ってくるとは思っていなかったのだ。渋沢は藤代の言葉を頭の中で何度も何度も繰り返す。その手に藤代の温度を感じた。俺もやめます。その言葉だけで、こんなにも喜んでる自分にも苦笑した。それでも――どこか満たされていた。








 俺もやめます。あなたがやめるなら。

 藤代の声が、部屋の中で何度も何度も繰り返し繰り返し 響いているような気がした。






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