「あ、風船」 「藤代、もしかして欲しいのかよ?いくつだっつーんだ、おめーは」 「三上先輩、夢ないっすねー」 「あ?」 三上の言葉に藤代は答えようとせず、それ以上何も言わずに空高く浮かんでいる風船を見あげていた。誰かが手離してしまったのか、その赤い風船は風に吹かれるままに、不安定に流されながら空の中を泳いでいる。青い空に赤い風船は一際目立っていた。陽の光がまぶしい。赤い。青い。まぶしい。 「タク、あと何周だっけ」 「2周。数えとけよ」 「途中までは数えてたんだけどさー、なんか3の次に2に戻ってたらしくてさー」 ほら、よくあるじゃん、そういうことってさ 「ないよ……」 「えー、あるって」 もう風船から興味がなくなったのか、藤代は笠井との言葉遊びに熱中しはじめた。三上は二人の会話をどこか遠くに感じながら、先頭を走る渋沢を軽く見やる。部員全員での走り込みを取り仕切る渋沢は、ただ無心に前だけを向いて走っている。一定のリズムでその身体が揺れている。なぜだかその姿が、空に浮かんでいるあの風船と重なって。……風の匂いを感じた。 「先輩先輩」 「……あ?」 「俺、むかしは風船になりたかったんですよ。」 「……………」 突然の藤代の言葉に、一瞬立ち止まりそうになって慌てて身体を前へと押しやる。一定のリズムで走っているのだ。途中でわずかにペースを落とせば後ろで走っている者にも迷惑がかかる。なんとかリズムを保つことに成功して、三上はようやっと呆れ顔をその顔に作ることが出来た。 「なにバカなこといってんだ、お前」 「先輩、誠二は一応"むかし"って言いましたよ」 「……あー、そうだったか」 バカ代がいうと”いま、本気で”そう思ってるように聞こえるんだよ 「えー、なんすか、それ」 「自分の脳みそに問い掛けてみろ」 「あー、三上先輩、自分が聞き間違えたからって俺をオチにすることないじゃないっすか」 「うっせーつーんだよ、バカ代!」 黙って走れ! 三上はそう呟きながら、前につられて立ち止まる。何時の間にか残りの2週を走り終えていた。藤代が「走れません」と真面目に言い返してくるので、無言でその頭を殴り「いってー!」と騒ぐ藤代の言葉を聞き流しながら、軽く後ろを見やる。自分の後ろにはまだ二軍、三軍の列が出来ていた。足元がかすかに地響きを鳴らしている。そのまま空を見上げた。風船はもう見えない。ただ足元から音だけが響いてくる。足を地に付け、蹴り上げる。走る音。息切れ。―― 大地が、揺れていた。 風船は、もうどこにも見当たらなかった。 「風船になりたかったんだとさ、ガキの頃」 「藤代がか?」 「……なんでわかるんだ」 「風船がどうのって、話してるのが聞こえたからな」 渋沢が軽く目を細めて笑った。風呂上りだからか、かすかに動いたその身体からかすかに雫が床に滴り落ちる。三上はそれを見て、眉をひそめた。「てめえ、またちゃんと拭かなかっただろ」わずかに呆れの声が混じったその言葉に、渋沢は目を丸くして「ちゃんと拭いたさ」と答えた。 「お前のちゃんとは、ちゃんとじゃねえんだよ」 実際、水たれてるだろーが。あ、……てめえはもう動くな! そう呟きながら、渋沢の手からバッとタオルを奪ってガシガシとその頭を拭う。シャンプーの匂いが鼻について、三上はかすかに顔をしかめた。渋沢の顔は見えない。その声はタオル越しのせいか、どこかくぐもった声をしていた。いつもよりも更に重みが増している声。――ずっしりとくる、その声。 「…風船、か」 藤代らしいな 「そうかぁ?まだ戦隊もののああいうのになりたいとかのほうが、救いようがあるだろ」 よりにもよって、人間以外のものになりたい、だぜ。 「藤代らしいよ」 三上の言葉に、渋沢はただそう呟いた。 藤代らしいよ。 楽しいのか、嬉しいのか。その声から判別することはできない。三上の位置からでは渋沢の表情すら、見ることができない。けれどその顔はいつもよりも穏やかなものなんだろうと三上は思った。音もたてずに、喉だけで く、と笑う。まるで嘲笑するように。 「そういうの、言ってやれよ。藤代に。喜ぶんじゃねーの、あいつ単純だし」 「"そういう"の?」 「らしいとか、いいんじゃないのか、とか」 お前、俺にはそういうのあんがいあっさり言うくせに、本人の前だとあんま言わないのな。 渋沢は三上の言葉に小さく笑い、「そうだったかもしれないな」と 静かな声で呟いた。かもしれない、じゃなくて、そうなんだよ。三上の容赦ない声に、渋沢は少し考え込んで、―― そうだな、と、認めた。そうだな。 渋沢の潔い声に、三上はなにも言えなくなる。こいつのこういうところが苦手だ。真っ直ぐ前しか見ていない。無意識に、頭を拭うその手に力がこもる。不意に、無心に走っている渋沢を思い出した。同時に風船が頭をちらつく。赤い。青い。まぶしい。……飛んでいく。手が届かない場所へと、飛んでいく。 「…しぶさ、」 わ。 そう言い終わる前に、廊下が(正確には寮室の前だけだが)が、不意に騒がしくなった。まずは笠井の制止する声がかすかに響き渡り、それだけで、外にいるのは誰なのか瞬時に理解する。 三上は「…またかよ」と呟き、渋沢はかすかに肩を揺らした。ほどなくしてノックもなしにドアが勢いよく開かれる。案の定、半ば仲間割れの状態で部屋の中へと入り込んできたのは藤代と笠井だった。 「先輩、…あっ、三上先輩、キャプテンの首しめてんじゃん!なんで抵抗しないんすか、キャプテン」 「しめてねえ!」 藤代、てっめえは……、毎回毎回何度言ってもノックもしねえで、ふざけんな! 「だってめんどくさいし、――あ、キャプテン 聞きました?鳴海が今度鼻からラーメンほんとにやるらしいっすよー」 「鳴海が?」 「て…っめ、人の話聞いてんのか、藤代!」 三上の言葉に藤代は、屈託なく笑い「聞いてるに決まってるじゃないっすかー」と、呟く。笠井はそんな藤代の頭を掴みながら、「夜遅くにすみません」と頭をさげ、藤代の頭も一緒に押しやる。藤代は不満気な声をあげ、それを見ていた渋沢がかすかな苦笑いを漏らしながら、「藤代」と、藤代を呼んだ。それだけで藤代は一際嬉しそうに笑い「なんすか」と、渋沢の方へと身を翻した。 「この前見たがってただろう?」 渋沢と藤代は二人だけの会話を楽しみ始め――結果として、三上は笠井と会話を交わすようになる。いつからか始まったこの均衡は崩れることなく続いていて、誰もそれを不審がらない。はたから見れば自分たちは「仲のいい二年コンビと三年コンビ」としか映っていないのだろう。そう考えて三上は薄く笑った。それは確かに正解なのだ。ただし半分。半分だけだ。そう考えて、不意に立ち上がる。笠井はそんな自分にいち早く気付き「どこへ行くんですか」と首をかしげた。 「飲み物買ってくる」 「ああ、じゃあ俺も」 「あ、タク、俺 あれね、あれ」 「あとでお金返せよ」 「え、俺、いま金ない」 「……来月の小遣い日には絶対請求するからな」 三上は「行くぞ」とそう呟いて、笠井と藤代のやり取りを中断させる。渋沢はいんないだろ。三上の声に渋沢がああと頷いた。 部屋のドアが閉まるまでの数秒、渋沢と藤代の声が静かに部屋に響いていた。 自動販売機の前で、笠井は何も言わずに二つの缶ジュースを選んだ。誠二、最近これに凝ってるんですよ。ガコンという音が響き渡り、黙ってそれを手にとる。 電灯が切れ掛かっているのか、その場が明るくなったり暗くなったりしていた。足元に影ができて、すぐに影は暗闇に埋もれていく。飲み込まれる。闇に。――暗闇に。 「…誠二」 「……ん?」 笠井は缶をその手にとったまま、立ち上がろうとしない。顔は自動販売機のほうを向いたまま、言葉を発してくる。明るくなったり、暗くなったり。足元に影ができて、――すぐにその場が影に埋もれる。飲み込まれる。目がチカチカしてくる。笠井の声が、凛とした響きをもって耳に響いた。赤い風船が見える。赤い。青い。……眩しい。 「昼間、風船になりたかった、て、いってたでしょう」 「ああ、バカだな。あいつは」 「……………空がね」 空のイメージが、渋沢先輩と重なるらしくて。赤い風船が少し羨ましいとかいうんですよ。 「…羨ましい?」 「空の中で自由に飛んでるでしょう」 だから、羨ましいらしいです。 ……バカですよ。 笠井の言葉に、薄く笑う。そうだな、それに渋沢もバカだし。…おそろいだろ。三上はそう呟いて、ガコンと出てきた自分の分の缶を持ち上げ、おもむろに口をあけた。笠井が静かに顔をあげる。明るくなったその場がふたたび暗くなり――顔が消える。 目の前に赤がちらつく。空の中を飛んでいく赤。藤代。青。渋沢。笠井、風船、空、藤代、渋沢。 ―― 自分。 「先輩にとって、風船は渋沢先輩なんですよね」 暗闇から声が聞こえる。その声は質問のようで質問ではなかった。どちらにも取れる響きをしていた。灯りは未だにともらない。今度こそ本当に電灯がきれたのかもしれない。三上は笠井の言葉をどこか遠くで聞きながら、そんなことを思った。 先輩にとって、風船は渋沢さんなんでしょう。笠井の言葉がどこか遠くで鳴っている。 「でも」 俺の中では、先輩が風船ですよ。 「……」 へえ。そりゃ、光栄だ。 笠井の言葉に、三上はそう呟いた。頭の中では赤い風船がちらついている。灯りがその場にともった。一気に明るくなる。目がくらむ。ようやっと目が慣れてきたと思ったら、笠井が立ち上がって目の前まできていた。その顔はやっぱりいつもの笠井のもので、―― 三上はふと現実に戻ってきたような錯覚を覚える。 「行きましょう」 「……」 笠井の言葉に微かに頷いて、―― そして皮肉るように笑う。お前もあんがい趣味悪いのな。我ながら最低だなと思いながらそう呟くと、笠井はどうってことないことのように「昔からです」と抑揚のない声でそう呟いた。別にいますぐ欲しいなんて思ってないですから。とも続けて呟く笠井に、三上は小さく、「あー、そうかよ」と、そう呟いて笑った。 それでも頭の中では空がまわっていた。空。赤。風船。……届かないもの。 手に入れることができないものばかりが、頭をまわっていた。 はたから見れば自分たちは仲のいい二年、三年コンビなのだろう。三上はそう思って、薄く笑った。確かにそうだ。確かに仲はいい。ただ反面、虚像ばかりが増えていく。その証拠に、自分は日に日にガタがきている。身体中が痛い。背中ばかりを追いかけている。誰の背中を、なんてことを考えることすらもうとっくの昔にやめてしまった。ただ、―― ぶっ壊れればいいと思った。すべてがぶっ壊れればいい。この身体がガタがくるまえに。すべてがダメになる前に。今の関係も何もかもぶっ壊れろ、と、三上は身体が軋む音を感じながら目を閉じた。渋沢の声、藤代の態度、笠井の言葉。少しずつ動き出している。自分だけが動けない。とんだ茶番だ。三上は軽く声をたてて笑った。 恐らくこの均衡はそのうち崩れ去るのだ。近い将来、この茶番劇は終わりを告げる。予感だけは前からあった。渋沢の声、藤代の態度、笠井の言葉、赤、青、眩しさ。風船、…空。 「……ほんと、趣味悪いのな、お前も」 「不毛なのはお互いさまだと思いますけど」 笠井の言葉に、軽く笑い「そうかもな」と。 それだけを呟いた。 渋沢の声、藤代の態度、笠井の言葉、赤、青、眩しさ。風船、…空。 ガタがきはじめてる理由なんて、それだけだった。 (終) |