人間は誰しも両刃の剣だ、と 誰かが嘲笑(わら)った。








彼が猫になる前。







「……どういう意味ですか?それ」
「自分で調べろよ」


 三上のくぐもった笑い声に、笠井は憮然とした表情になる自分を感じた。それでも他人からしてみれば、微かな表情の変化なのだろう。目の前にいる三上ですら、今、笠井が憮然としていることに気付いていないのかもしれない。

「まあ、頑張れよ」
「なにがですか」
「藤代は危険だぜ」

 その場に流れる空気が、軽く悲鳴をあげたような気がした。三上の言葉に笠井は眉を潜める。自分の声とは思えないほど低い声がその口から流れ出てきた。

 ……どういう意味ですか。

 それぞれのニュアンスの違いを理解したのか、三上は皮肉るように唇を歪め、そして目を細めた。この人のこういうところが厭だ。笠井は今度こそ、表情の変化が乏しいその顔をあからさまに変化させ、三上を見据えた。その顔に浮かび上がったのは紛れもない不快感。

 この人の、中途半端に頭がまわるところが癪に障る。
 この人の挑発の仕方が気に食わない。

 人間は誰しもそうだが、感情を表情で表現する術をもっている。ただ笠井の場合、その変化が他人よりもほんの少しだけわかりにくいだけで。少なくとも笠井自身は自分のことをそう分析していた。その自分がこうして、こうまであからさまな不快感を表したという危険性に、三上は気付いているんだろうか。
 自分の中の狂気を感じた。


「……知ってるか、笠井」
「…なにを」
「人間ってのは憎しみと愛情を紙一重で持ち合わせられんだぜ」


 三上は静かにそう呟き、そしてか細い声で笑った。
 ―― 悪かったな、もう寝るんだろ。
 いつものどこか皮肉を言う三上は確かにその場にいるのに、どうしてだかその声からは寂しさしか感じられず、笠井は軽く混乱した。もしかしたら三上は、気付いていたんだろうか。すべて、気付いているんだろうか。だからこそ、笑っているんだろうか。
 渋沢のことを悪くいうことはあっても、ほめたりはしない人だった。部員達――特に後輩達の中には、渋沢の崇拝者達が吐いて捨てるほどいたせいか、どこか部内から孤立している人だったけれど、けれども三上と比較的に会話を交わす者達はその言葉の裏に、どこか慈母のようなものが満ちているものを知っていたせいか、けして三上は一人ではなかった。渋沢と三上は親友同士だったから。
 笠井もその事実に気付いてからは、三上に悪い印象を抱いてはいなかった。いなかったけれど。

 こんなにも、この人を近くに感じたことはなかった。


 この人も諸刃の剣を持っているんだろうか。―― 憎しみと愛情を持ち合わせているんだろうか。自分が敵わないと知っている、あの人に。三上にとっては親友であるあの人に。もしかして、気付いていたんだろうか。すべて、気付いているんだろうか。だからこそ、笑っているんだろうか。―― 俺たちを止めるために。
 そう思うと、さきほど湧き上がっていた不快感が面白いほど萎んでいき、終いには――

 泡のように散って、消えた。






「なんでかな」
「なにが」
「だって、気持ちわりいのに」

 なんで、俺、ヤってんだろ。


 藤代の冷めた声に、笠井は何も言わないまま窓の外を見つめた。換気をするために開けられた窓から、かすかに夜風が入り込み、机の上に広げてあった国語辞典がパラパラと音を立てながら動いていた。――両刃の剣。あの言葉の残骸だけが、そこに残っている。

 藤代にとって、すべては気まぐれでしかないのだ。笠井はそれを知っていた。辛いなんて感じることはとうの昔に止めてしまった。ただ自分は藤代が欲しいからこうしているだけで。藤代はそれに付き合って、そして最後に笠井を傷つけて終わる。毎日毎日繰り返しだ。まるで螺旋階段を上っているようだと思った。迷路の中をさまよっているような焦燥感と――安堵感。反発しあう心が日に日に大きくなっていく。


「なあなあ、タク」
「なんだよ」
「明日ってさ、なんだっけ、朝練あるじゃん」
「ああ、あるな」
「キャプテン、また相手してくれっかな」
「してくれるだろ、きっと」
「そっかなー、だってさ、監督いるとなかなかやらせてくんないし」
 病み下がりなのにな。なんであんな頑張ってんだろ
「病み上がりって…もう随分まえの話だろ」

 笠井は何気ない様子を装いながら、自分の洞察力の鋭さを呪った。藤代は何気なさを装いながら、敢えてこの話題をふっているのだ。そんなことに気が付いたのは、こんな行為を行うようになってすぐだった。

「キャプテン、すんげえんだって」
「知ってるよ、あの人がすごいことくらい」
「だってさ、今日だって、――」

 タク、きいてんの。
 なあなあ、明日もさ、キャプテン来るかな
 三上先輩もさあ、ほんっとキャプテンの世話焼きすぎだよな

 すべてが故意なのだと、知っていた。藤代は何気なさを装いながら無邪気さを装いながら、故意にあのおとこの名前を出している。それに気付いていながら自分はそんな茶番に付き合うのだ。聞いてるよ。来るんじゃないの、風邪引いたりしないんなら。三上先輩は渋沢先輩の母親みたいなもんだから。
 その言葉一つ一つが藤代を満足させる。自分はそれを望んでいる。望んでいるのに。
 ―― 両刃の剣だ、と おもった。



「……なあなあ、タク」
「なに」
「タクって、俺のこと嫌いなんじゃん?」
「…なんで」
「だってつまんなそうだし」
「表情がないのは元からだよ」

 そっか。

 藤代が楽しそうに笑った。傷つけた後にこうして必ず同じような質問をされることにも、もう慣れてしまった。
 藤代は、相手を傷つけることで自分の価値を見出している。自分の中の感情をまるで見せないで、俺を傷つけてそのまま放置しながら、さらに傷を負わせる。そうすることで、それでもまだ俺が藤代の相手をするか藤代を欲しがるかを試しているのだ。諸刃の剣だ。傷を負わせる。それでも欲しがる。慰められる。傷つけられる。――お互いに何かを失い合っていく。

 ねえねえ、タク。

 眠気が襲ってきた身体に、藤代の声が聞こえた。
 暗闇から声だけが、聞こえる。


 ……なに

 もし俺が、 死んで、て言ったら

 タク、どうすんの。


 藤代の声が闇から聞こえる。後から後から追いかけてくる。笠井は瞑っていた目を開け、ゆっくりと藤代の顔を見つめそして。


 いいよ。

 と、かすかに 笑った。


「……タク、もいっかい、しよ」

 藤代の驚いた顔と、どこか楽しそうな声だけが、耳に響いて。
 笠井は、嘲笑(わら)った。

 人間は憎しみと愛情を紙一重、となり合わせにしながら生きられるんだと、身をもって知った。














 両刃の剣だ、と、誰かが嘲笑(わら)った。囁いたのだ。


 お前たちは。





 両刃の剣、――光の無い場所にいるんだ。


 と。







 彼が猫のように笑った日。のサイドストーリー